今週は自分に優しく
■自分を褒めて良い日
今週は連休明けの週で、休むための理由探しをしていませんでしか。暑さや空調の影響、思わぬ大雨、理由は様々なことがあると思います。今週は学校、会社に行けただけで自分を褒めて良いと思います。
けれど、どれだけ休んでも疲れが回復しない、それどころか、休みの間も仕事で頭がいっぱい、気分は憂うつ、他に興味や関心が向かないような場合は注意が必要です。そして、さらに出社はしたものの、頭痛や吐き気、仕事に集中できない、簡単な事でミスを起こすなど、普段の自分とは違うと感じている場合には赤信号です、お休みが必要な状態かもしれません。
自分にマルを付けてあげましょう。
■会社を休まないといけないとなった時に備えて
休むなんて考えられない、周囲にも迷惑をかけてしまう、家族もいて、その期間の生活費はどうするのか等様々な不安が浮かんでくると思います。実際、僕自身も休職を経験し、同じような不安がありました。
実際にその時になると会社の就業規則等で休職がどのように定められているのか、どのように扱われるのか手元にないため、わかりません。どこまでの期間休むことができて、どこまでの期間までがタイムリミット(退職)となるのか、会社の就業規則に目を通しても良いかもしれません。
実際、僕の勤め先は勤続年数によってタイムリミットが違いましたし、傷病手当金の他にも制度があることもわかりました。復職後、就業規則をみましたが、僕が使った制度はここに書かれていることだと改めて確認しましたし、色々な権利、義務が書かれている大事な規則だと思います。ぜひ、一度目を通してください。
■生活資金の中心は貯金と傷病手当金
休職が必要になった場合は、まずは生活資金です。会社員であれば傷病手当金が資金源になると思います。就労状況、年数によっても支給対象可否が変わりますが、標準報酬月額(おおよその毎月の給与(税引き前)の直近1年間平均)の3分の2を日額に計算して、欠勤日数分が支給されます。(給与支払やその他の給付がある場合は差引されるケースがあるようです)
例)標準報酬月額300,000円 ×2/3 = 200,000÷30日=平均日額6,666円
欠勤日数20日であれば、平均日額6,666円×20日= 傷病手当金133,333円
注意点は、社会保険料(厚生年金保険料、健康保険料)は休職期間中であっても支払をする必要があります。支払方法は会社によって立替や振込等になるかと思いますが、この支払があるため、イメージとしては毎月の手取りより若干少ない額が手元に残る感じでした。そのため、貯金の切り崩しはやはり必要となります。
傷病手当金の受給期間は2022年1月の改訂で累積で1年6ヶ月となりました。(従来は受給開始日より1年6ヶ月の間)そのため、1年6ヶ月の間に復職した期間があれば、一旦は受給期間の計算はストップし、再度、休職を繰り返した場合は、再び受給期間の計算がスタートし、累積で1年6ヶ月まで支給されるようです。改訂の適用前より受給されていた場合は従来どおり受給開始日によるため、復帰後相当期間就労ができ、社会的治癒が保険組合より認められると再受給が可能なケースもあるようです。具体的な判断は、各保険組合が決定者であるため、加入している健康保険組合に確認が必要です。
何よりは身体を壊さないこと、健康第一です。予防的な考え方として、連休明けや休み明けは出社、登校できただけで自分を褒めてみましょう。
不登校からの復帰 心の区切を付けやすいタイミング
■不登校とサヨナラ、心の区切を付けやすい2つのタイミング
不登校児だった僕は現在、普通のサラリーマンとして働いています。 体調を崩し、休職をすることはあったものの、正社員として雇用され、可能な限り義務を果たし、持っている権利は上手に使うようにしています。
僕自身は、不登校の時期を含め、ひきこもり歴で言えば10年近い状態で、心療内科の医師からも僕の経歴をみて周囲とのコミュニケーションが取れていることに驚かれていました。 (けっして上手ではありませんが・・・)
現在は所帯を持ち、二人の子どもたちもいて、問題がないわけではありませんが、なんとか平凡な日々を過ごせるよう努めています。
”平凡”や”普通”の生活を送ることについて、不登校児でひきこもりだった僕は、なんとか大検(高認)に合格し、大学受験に悪戦苦闘して、たまたま父親から2浪と3浪では大きく違うと言われたことに対して、奮起し、2浪で中堅私大に入学しました。 高校中退というマイナスポイントを補うために、大学では就活で話させるエピソードづくりに励み、書類審査でもあえなく撃沈しながらも、なんとか内定を頂戴し、今に至っています。
大した事をしたわけではないため、偉そうなことは書けませんが、不登校から平凡や普通と言われる日々に復帰するチャンスは数多くあるものでも、永遠に存在するものではないと考えています。
焦るものではないと思いますが、早ければ早いほど良いと思います。 そして、高校デビュー、大学デビューが復帰しやすいと思います。 就職にあたっては残念ながら、学歴、職歴は求められ、就職先の選択肢を広げる、不登校とサヨナラをし、心の区切をうつタイミングとしてこの2つのタイミングはとても重要だと思います。
仮にこれまでの友人と疎遠になっていたとしても、新たな友人を作ることも、色々なことをやり直すこともできます。 スタートダッシュし過ぎて、僕のように高校で過敏性腸症候群で体調を崩してしまわないよう注意をしてください。
(勿論、多様な生活スタイルがあるため、平々凡々が絶対良いとか、そうでないと悪いとかを言うつもりは一切ありません)
不登校からの復帰方法
不登校児だった僕が考える復帰方法を整理してみます。
不登校の理由探しに時間を費やさない
不登校の理由が明確であれば対処方法を考えることもできるかもしれません。けれ ども、その理由が「めんどくさい…」「ただなんとなく嫌だから…」等はっきりとしたものではない場合、「じゃあ、行きなさい!!」と強引に連れていくのも手段かもしれません。けれども、無理強いは親子の信頼関係を失う可能性もあるため、注意が必要です。
実際に下記の記事において僕自身、母親が担任の先生に連絡し、無理やりに連行された記憶が強く残っており、すべてではありませんが、学校を休むことに関しては母親を信用できなくなりました。
現在は2児のパパになり、小学1年生の子供がいます。しつけは連鎖する傾向があると考えるため、子どもの行きたくないという気持ちの発信があった時には同じことをしないようにと肝に銘じています。
不登校の理由探しは悪いことではありませんが、僕自身は大人になった今でもなぜあの時行けなくなったのか、明確な答えを見つけ出せていません。もしかしたら、不安障害等の心の病の前兆だった”かもしれない”程度です。
友達との関係を途切れさせない
理由探しよりもこの部分が一番大切なことだと考えています。特に小学生の場合、友だちとの関わりが無くなってしまうと学校に行くハードルがより高くなってしまいます。元気が戻った時に少しだけ行ってみようと思っても、友人との関係が疎遠になってしまえば、そのことにつまづいて、行けなくなってしまいます。友人との関係で疲れて、不登校になり、友人との関係で癒されて、復帰するというのも多いのではいかと考えます。
実際に、僕自身も小学5年生の時の先生が上手に友達との関わりや僕にクラスでの役割を持たせてくれたおかげで、その年は少しずつではありますが、登校することができていました。
実際には、大人が子どもの友人との関わりを繋ぎとめるのは難しい部分もあると思いますが、担任の先生や周囲の方々にここは頼って良い部分だと思います。成果がみえなくても、友人が遠ざかっていく悲しい気持ちを抱かせない努力はしてみてよいと思います。
高校デビューを目指す
小学校、中学校と不登校が続いてしまい、友人関係も中々戻すのが難しい場合は高校への進学をきっかけにする、区切りをつけるのには良いタイミングです。
僕は進学に向けて、中学3年生の時だけ、不登校の定義(1年間で30日以上休まない)に引っかからないよう登校を再開しました。県にもよりますが、進学時の内申点は中学3年生の時の評価を採用するところも多いため、中学1年生から中間、期末等定期試験は受験するようにして、勉強の進捗管理に使うと良いと思います。
自己学習では僕は学校の進捗度に合わせて送られてくる進研ゼミをおすすめしますが、子ども自身に合う参考書と学校指定の教科書があれば十分かもしれません。
↑4.の項目に文科省の定義として、欠席「児童・生徒指導要録」の「欠席日数」欄の日数により,年度間に連続又は断続して30日以上欠席した児童生徒について調査しているとあります。
休職して、心を休ませよう
連日、午前0時過ぎまで働き、新たな部署、新たな業務で効率的に業務を行えていない。「何をしているんだ」と心の中で何度も、何度も思った。上司もピリピリしている、相談がしづらい、あげくには「君の年次ならもっと早く出社しなさい」「無駄な動きが多い」「甘い評価を受けて」と叱責も受けた。僕はどんどん塞ぎ込んでいき、深夜に帰宅後、子どもの寝顔を見ながら、虚しさがこみ上げて来て、涙が流れました。
■ 僕が休職をするまで
入社から8年後、部署異動が決まり、慌ただしい日々を過ごしていました。慣れない空間、慣れない人、課長を除くと年次では一番上になっていました。まだまだ若手よりの中堅の感覚でいましたが、課長の右腕にならなければいけないと思っていました。
しかし、思いとは逆で、課長のイライラの的になり、慣れない業務で効率的にできず、業務過多で連日深夜まで残業が続きました。朝は5時半に起き、急いで準備をし、子どもを保育園まで送迎、始業30分前までには着き、どうしても遅れる日はあったとは思いますが、上司にも子どもを送迎していることを伝えていたのにも関わらず、ある日「今度の面接でも伝えようと思っていたが、君の年次ならもっと早く出社しなさい」と言われました。その時にはもう、僕の心身が疲れ切っていて、上司が何を言っているのか、なぜ、了承を得ていたことを蒸し返すように言ってくるのかがわからず、反論できませんでした。
そして、心身の疲れがピークに達し、簡単な業務でミスを起こして、上司から叱責を受け、その時に視界がぐにゃっと曲がる感覚を覚え、頭痛や息苦しさ、不安感等持病も重なり、悪い方向に進んでいると強く感じていました。
「もう、何もできない、役にも立てない」、周囲の後輩たちのことを考えれば考えるほど「無責任、根性なし」と虚しい気持ちでいっぱいになり、涙がこぼれ、身体は重く、会社を辞めたくて仕方がありませんでした。
かかりつけの病院で現状と症状を伝えると、「うつ状態により3か月間の自宅療養を要す」と診断を受けました。新たな部署で活躍したい、課長の右腕になる、僕の期待とはまったく違う結果となっていました。
■ 休職の原因を考えると
現在は復職をし、5年が経過しています(再び調子が悪く、また休職しそうですが...)が、この時は新たな部署で活躍をする!課長の右腕になる!と期待に胸を膨らませて意気込み過ぎ、そして、その思いとは裏腹にまったく活躍できない、そして課長からも認められない現実を一人で抱え込み、誰にも話をすることができなかったことが大きかったように思います。不登校から大検取得、大学へ進学し、就職、ほとんどのことを一人で解決してきたため、誰かに頼る、寄りかかることが苦手だったのです。(もちろん、不安障害という病気を元々持っていたことも原因ではあります)
休職の診断を受けるまでは何度も仕事を辞めることを考えていましたが、心身が疲れていて、冷静な判断ができない状態であったと思い、辞職ではなく、休職を選択しました。大きな決断は休んでからでも良いと考えました。
幸い、ファイナンシャルプランナーの資格を取得していて、傷病手当金等、休職の間の生活費については十分なんとかできると知っていたのも大きかったです。
■ 心をやすませよう
休職期間中は服薬の変更やこれまで通院していた病院を替えて、別の病院へと通い始めました。最初はパニック障害が起きた時と同じような状況になり、不安感から電車に乗ることも難しい状況に陥ってしまい、本当に復職できるのかとても心配になりました。
しかし、身体に合う薬があり、ある程度、休職する以前の身体の感覚に近い状態にまでなり、先生から復職に向けて、不安感が出てきた時の対処法を考えてみてはと言われ、どのようにするのがいいか迷いましたが、その時に「プレジデント」という雑誌をご存知でしょうか。↓の記事を本屋で読み、マインドフルネスのことを知り、心を休ませる、整える時に使うようにしています。
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その他にも、お手洗いで手に水を溜め、水の冷たさや柔らかさを感じて、心を鎮めるようにしています。コロナ禍で手洗い、うがいは大切ですし、その時に少し心がざわついているような感じがある時に使っています。水は人間の身体のほとんどを占めていますし、柔らかい優しい感じでもありながら、勢いをつければ剣をも折ることができる程、固く強くもなります。そんなことを思いながら、水の優しさと強さで心を和ませるようにしています。
学校や仕事を休む理由
月曜日の朝、身体が重たくて、今日は休みたいという考えが頭をよぎる、いや、昨日の夜から既にその前兆があったように思う。いやいや、金曜日から既に月曜日に何を理由にして休むか既に考えていたのではないだろうか
■ 小学校を休みたい
突如として現れる「行きたくない」という気持ち、どこから来たのだろうか。友達?友達とも仲良くできている。先生?元気いっぱいな先生、みんなからも人気で担任になってほしい先生だと思う。勉強?進学する度に難しくなるものの、勉強についていけない程ではない、47都道府県を漢字で覚えるテストだってクラスで5番以内には覚えていました。
僕にはふつふつと沸いてくるように「休みたい」という気持ちがやってくることが不登校になる前からあり、休みたくて、休みたくて、前日に冷たい水をかぶって、風邪をひこうと何度も試みたけれど、一度たりとも風邪をひくことはありませんでした。
そんな時に僕が考えたのは、ホッカイロを脇に挟んで、少しあたためて、温度計ではかる。完全に熱がある状態、上がり過ぎて、40℃を超えた時は何かの間違いと、誤魔化しつつ、もう一度、図ってみます、そして38℃程度だったら、親に伝えて、休む、先生に連絡をしてもらうことができれば大成功です。僕の心は落ち着いていきます。
今思えば、こんなことをしなくても、もっと素直に伝えればよかったように思うけれど、親に対しても不信感がありました。小学校2年生の時、僕が休みたくて、学校に行かないでいると、先生がお家までやってきて、僕は慌てて、外の物置に身をひそめました。見つかりそうになると、先生とのかけっこがスタート、リレーのアンカーをつとめて、走りに自信がある僕でも流石に大人、しかも男性の若い先生には敵わない、すぐに捕まって学校へ連行されました。
僕は学校を休むことに関しては、親に素直に伝える事をやめました。
このときのことを思うと、親に対して、こんなに嫌がっていたのだから、理由なんていいから休ませてくれれば良かったのに思う。少し休んで元気が戻ったら、再び行くことができるはず...。
けれど、自分が親になってみて、子供は既に小学生、今は元気に行っているけれども、学校を休みたいとなったら、休むことが癖になっても困るし、ましてや不登校になったら、、、それでも、心身が疲れた様子がないか、子供の話をしっかりと聞けているか、幼いからこそ、上手に伝えられないだけでないないか、学校で何かが起こっていないか、冷静になって子供の気持ちに傾聴ができているかは気をつけたいと思います。
■ 会社を休みたい
大学を卒業し、就職してからも、沸々と気持ちが湧きあがってくる。勿論、子供の時とは違い、コントロールすることはできるけれども、無理をし過ぎると僕の身体は悲鳴を上げて、土日のお休みが丸々うずくまる日となってしまうことがあります。
僕が患っている不安障害は、常に一定程度の不安感があり、時には息苦しさを感じることもあり、そのため、心身が疲れるのがとても早いと感じています、心の体力が少なく、すぐにバッテリー切れを起こします。
そのため、勤め先に病気のことをクローズしていた時期は、あえて休むことを心掛け、働き方改革が行わえる前だったので、まだまだ休むことに対して、理解を得られづらい時期ではあったように思いますが、上司に電話で連絡して、お休みをもらいます。
「申し訳ありません、扁桃腺が腫れているのか、熱と倦怠感が強く、本日お休みを頂戴したいです。業務については、本日必ず対応というものはありません」
「申し訳ありません、食あたりなのか、昨晩から吐き気が続いていて、お腹も下しており、寒気をするので、本日出社が難しいです。業務については、本日、必ず対応というものはありません」
休むためのフレーズは決まっていました。上司は体調不良のことよりも、業務のサポートが必要かどうかを気にしているため、必ず、今日しないといけないことがあるのか、ないのかを必ず伝えるようにしています。僕自身、急に休みたい気持ちがわいてきた時、心身を休めないといけないとなった時の休む基準としても本日絶対の案件の有・無を重要視しています。
65歳、70歳まで働こうと思うと、バリバリ働くのは理想ではありますが、僕のように持病がある場合には、細く長く続くようにを心掛けて仕事と向き合っています。
休むことは無責任??そう思う方もいらっしゃるかもしれません。けれども、無理をして、長期に休むこととなり、席を空ければ、さらに迷惑をかけることになるかもしれません。そうなる前の予防策として、僕はあえて休むこと、そんな自分を許すようにしています。月曜の朝、つらすぎるのであれば、1本電話を入れ、休むのも悪くないですよ。
高校中退から幾度も諦めそうになった大学への進学
小学4年生で不登校傾向が現れ、学校に行くことができませんでした。
友人とは疎遠となり、謳歌すべき青春のほとんどをお家で過ごました。
ようやく外に出ることができたのは20歳、県外の大学に進学し、一人暮らしをはじめてからでした。靴ひもを結ぶのに喜びを感じ、大学へ行き、どこにも属さない無職成人男性だった僕が、大学という場所に属し、再び学生に戻ることができました。不安障害にはなったけれども、その頃には調整ができ、そのおかげで前進することができたと考えています。
■何度も諦めそうになった進学
大検(現在の高認)を取得後、大学への進学は、闇雲に勉強をしていたため、やる気にムラが出て、勉強をする時、しない時(しない時が圧倒的に多かった...)があり、苦戦をしました。
現役での受験すら準備不足でできず、何をしているのだろうと自分を認めることができない日々が続いていました。そして、2浪で迎えた受験シーズン、準備不足は変わらないままで、3校程度受験をしたものの、A日程、B日程ともに不合格、「やっぱり駄目だ、このまま諦めよう、3浪して、来年頑張ろう...」と甘い考えが浮かび、勉強を終えようとしたある日、父から「2浪と3浪では大きく違うからもう少し頑張ってみたらどうだ」とこれまで見守っているだけでしたが、突然話があり、その声かけからC日程で合格ができそう、かつ、自身が行きたいと思える大学、その1校に絞って、過去問を何度も、何度も解き、毎回ぎりぎりで合格ラインの点数がとれるようなっていました。
試験当日、これまでの受験とは違い、緊張があり、なんとか届きそうな期待があったからだと思います。過去問を何度も解いていたおかげで、同じパターンの問題が来て、ついていると感じました。試験後の自己採点は合否ラインぎりぎりで落胆していました。合否発表の日まではドキドキを感じ、早くその日が来ないかと1日、1日を長く感じ、待ちわびたのを覚えています。
■合否発表の日
パソコンで合否判定のため、受験番号等を入力し、結果画面には「合格」の二文字がありました。僕はパソコンの前で「ヤッターーーーーーーー!!!!」と叫びました。嬉しくて、嬉しくて、家にいた全員にすぐに報告し、そして、アドバイスをくれた父親にも、職場に電話を入れて、合格したことを伝えました。「おめでとう」職場なので、その一言だけでしたが、父親から認められたような気がして、とても嬉しかったです。
■合格後の憂鬱と期待
合格後は、すぐに一人暮らしの準備でした。あれだけ嬉しかったのに、ずっと居続けたこの家から出ることがとても不思議でした。父親が休みの日に慌てて、大学に近い、ワンルームマンションの賃貸の手続きを行い、終えて実家に帰った頃には、心身が疲れきっていました。「本当に大丈夫だろうか」と心配にもなっていました。
僕はここから家を離れることができました。父親からの2浪と3浪、この言葉については最初は2浪というのを大学の友人に伝えるのも恥ずかしかったのを覚えています。このことかなとも思ったのですが、後々の就職活動においての履歴書上の印象も違ったのかなと思います。(あくまで自分の印象なので、答えはありませんが...)
(就職活動等については以下にリンクを貼っておきます。)
不登校児と周囲の関わり
小学校4年生の三学期から不登校傾向があらわれた僕は、なぜ行くことができないだろうと自分でもわからず、友人から「なんで学校に来ないの?」と聞かれても、しっかりと説明することができず、モヤモヤした日々を過ごしていました。
そのような時に一時ではありますが、周囲のサポートを受けて学校へ行くことができる時期がありました。本日はその時のことを綴っていきます。
■親からのカウンセラーの提案を拒否
不登校傾向であった時に親からカウンセリングを受けてみてはとの話をもらうことがありました。しかし、僕は自分でもなぜ行けないのかわからないのに、知らない誰かに会って話をしたって解決しないと考えて、拒否しました。親からは「別に話さなくてもいいから」と言われましたが、嘘に決まっていると思っていました。(病院へ行く前に、「痛いことはないよ」っという親の言葉を疑うのと同じです)
今、親の立場になって思うことは、一つの方法として専門家の手をかりることができるのは良いことだと思っています。上手くいけば、後述しますが、小学校5年生の担任の先生の関わりが効果を生み出すことがあったように、良い方向に進むことがあるからです。だからといって、何かしらの不安やストレス等によって心身が疲れてしまっている場合もあります、その時に知らない人と会って話すというのはけっこうハードルが高いと思います。元気がない、心身の疲れがみえるような場合には思い切って休んで、その後、その後、調子が良さそうな時に話してみるとまた違う答えが返ってくるかもしれません。
■小学5年生の担任の先生からのサポート
どのようなきっかけでそうなったのか記憶にはないのですが、小学5年生の担任の先生はご自宅に他のクラスメイトとなぜか僕を招いてくれる機会を設け、クラスメイトと遊ぶ機会やクラスの問題が起こったような時も、喫茶店に担任の先生と相談をしたい生徒、そこに僕も同席させて一緒に話をして、時より同じ年齢の僕の意見を聞くなど、クラスメイトの相談役まではいかないものの、先生の補佐役のような感じで、役割を与えられることで、僕とクラスメイトの繋がりが途切れないようにする一つの方法だったように思います。実際、そのおかけで、クラスメイトと疎遠にならなかったため、学校に行きたくなった時に行くことへのハードルが下がりましたし、何より担任の先生を信頼していたので、学校に行きたいと思う機会が増え、途切れ途切れではありましたが、登校する日が増えました。
この先生には6年生も担任でいて欲しい、担任でなくても何かあった時は相談にのってほしいと思っていたのですが、それはかないませんでした。先生は産休・育休でお休みに入ることとなったのです。とてもめでたいことではあったのですが、その時の僕にとっては、また、僕が好きになった人が僕から離れていくと悲しい気持ちになったことを覚えています(”また”というのは小学校1年、小学校3年生頃に仲の良い友達が引っ越しをすることがあってそう思うようになっていました)。
結局、僕は小学6年生は卒業式を含めて一度も登校することはありませんでした。
■中学校2年の学期末までは2日間だけ
中学校進学時は真新しい制服、カバンを持って、入学式には出席しました。クラスにいる時は小学校の頃の友人はいましたが、6年生の1年間疎遠になっていたため、顔を会すのも気まずく、また、何を話していいのかもわからず、嫌な気持ちになっていました。友人だった人が友人でなくなるという経験はとても悲しいし、寂しいです。
そう思うと、小学5年生の担任の先生がクラスメイトとの関係を途切れないようにしてくれた働きかけは大切なことだったと思います。あの時、継続して6年生も担任でいてくれたら、違った将来があったのかなと少しだけ考えることがあります。結局、僕が中学2年生の学期末までの登校は2日間だけ、たまに中間・期末テストを受けるだけでした。
その後、僕は中学3年生の時だけ受験のためだけに通学するようになります。