不登校と年収
■ 不登校児だった僕の年収は680万円(37歳時点)
奥さんとは共働きで、子供二人が扶養に入っています。もちろん年収なので税込であるため、実際の手取りはもっと少ないのですが、一般枠での通常就職、高校中退後→大検→中堅私大→某企業へ入社、勤続10年超となっています。以下が住民税の通知書に載っていた詳細な給与収入です。
大学進学が大きかったように感じています。働く先の間口が広がるのは高校中退で終わるよりも広がることは間違いないです。
また、現在の勤め先からの転職を考えたこともありますが、転職時にも当然、中退のことはネックとなり得ますし、面接時に質問を受けることになります。逆に僕からすると待ってましたの質問です。これまで何度も聞かれていますので、想定どおりの話をするだけで面接時間が過ぎていきます。(他企業からの内定を頂戴しましたが、最終の条件が会わず、結局現職のままですが、、、)
■ 最難関の壁:勤め続けるということ
現在も感じますが、家族を持ち、なんとか働き続けていますが、不安障害を抱えている僕にとって働き続けることがこれからの一番の最難関の壁だと思っています。それは一度、現在の勤め先でも休職をしており、10ヶ月ほどお休みをしたことがあったからです。
周囲に大きな迷惑をかけ、再び自信を無くしましたし、周囲からの期待も薄れたように思います。現在の勤め先で働き続けることができるのか、自分は大丈夫なのか、今、得ている収入が確実に今後も得られる保障はどこにもありません。
既に管理職になることは心身の状況により、難しいと会社には伝えていますが、今後も様々な調整が会社と必要になってくると思っています。どのようにして働き続けるか、現在進行形で模索しているところです。
会社側ともどこまで折り合いを付けることができるのか、家族との楽しい生活を守るためにも考えていかなければいけないと考えています。先日、障がい者就労サポートセンターなるところへ電話をし、実際にはほかの方がどのようにされているかを聞きました。以下がポイントだと思います。
①会社側から気遣いを考えてくれることはない。
②配慮を受けたことは具体的にして提示をすること。
これまでは、人事部門の方に「現在の業務は大丈夫?」と声をかけられるとついつい「大丈夫です!」と心配をかけないよう即答していたのですが、今後は上記2点を意識しながら、どのように伝えていけば、より働きやすい環境になるのか、継続して働き続け、長い期間、席を空けて会社側に急な負担をかけないよう調整をしていきたいと思っています。調整したことについて進展があれば、また、ブログに残していきます。
大検(高認)と熱中症
大学進学を目指して、僕は高校中退後、大検の合格に向けて動きだしました。試験の日は最近の猛暑と同じように暑い日で、記憶に残る1日でした。
■ 残す道は大検(現在の高卒認定試験)だ。
高校へ進学をするも馴染むことができない、いや、それ以上に過敏性腸症候群によって授業に出ることができず、高校1年の1学期のみしか行くことができなかった僕は高校中退後にすることは決めていました
「学校に行けないのなら一人で勉強をして、大検を取得し、名のある大学に進学をする!」、このサクセスストーリーを描いていました。この時に”働く”ということは考えなかったのは経済的に親に恵まれていたのだと思います。(以下の記事では高校中退と就職活動についても触れています)
しかし、現実は甘くない、いや僕自身の問題でもあるのですが、一人で勉強するにあたって何を、どう進めたらよいのかがわからなかったのです。大学受験の制度自体を理解しないまま、闇雲に勉強をしていたため、目指すスモールゴールがなく、モチベーションが維持ができず、すぐに勉強から遠ざかってしまいます。この時期のことは振り返っても非効率だったなと思います。
最低限、どこの大学の何学部を目指し、そこへ行くにはセンター試験(現在の共通試験)を受ける必要があるのか、ないのか、必要な科目は何かを調べてみると良いと思います。それによって大検(現在の高卒認定試験)の受験科目を統一してしまえば、無駄がないのではないかと考えます。
科目を絞り、的を決めることができればあとは向かうのみ、進研ゼミ等の参考書を使用して、共通試験が不要であれば、志望校の赤本等で過去問対策を実施して、必要な点が取れているかを確認すると良いと思います。
僕自身は、今考えれば向かう相手を知るということを疎かにしたため、中堅私大になんとかC日程で滑り込みましたが、大きなロスを伴いながらだったため、これからの方には同じことにならないようにと思います。
■ 夏の試験にはご用心を
大検の日程が真夏日で、トイレが不安だった僕は、水分補給を控えるようにしていました。さらに試験に不慣れ、かつ、引きこもりで人に慣れていないため、試験会場にいる様々な人たち(元ヤンキーみたいな方々)と一緒にいるのが嫌で休憩時間は暑い中、屋外をフラフラと歩いていました。近くに涼める場所はないかとも探したのですが、会場近くの地理に浅く、わからないまま休憩時間は終わり、試験が再開されました。
すると、試験が開始して数分後、両手の手先がしびれるような感覚が出てきました。なにかなと思いつつ、その後少したつとそのしびれる感覚が全身に広がり、身体が沸騰しているかのようにになり、そして、視界が真っ暗に、おそらく脱水症状か、熱中症かと思うのですが、試験の最中にこのような状況になり、倒れる前になんとか手を挙げて、気分が悪いことを伝え、試験会場から途中退席をすることに、、
会場スタッフの方がすぐにスポーツドリンクを買ってきてくれ、それを全て飲み、なんとかその場で横になっていると視界は元に戻り、しびれも残ってはいるものの、全身が沸騰しているような感覚は消えていきました。
なんとか自宅に帰り、横になっていましたが、翌日にも身体には熱が残ったままで、2日目の試験にも望むことができませんでした(そのため、別日程で大検は取得することとなりました)。
猛暑日や別の試験の時もそうですが、この時以来、水分補給は適宜した方がよいことを肝に銘じました。また、手が軽くしびれたり、脱水症状等の初期症状のようなものを感じたら、これもすぐにスポーツドリンク等を飲むように気を付けています。
連日、暑い日が続いていますので、何か少しでも体調に変化がある、あるいは試験等普段とは異なるような場に出る時は特に水分補給には注意をし、僕のような失敗がないようにしてください。何より身体が大事です。
ハワイ挙式は症状と付き合いながら
9年前、奥さんとの挙式は海外挙式でした。両家とも家族のみで穏やかに、ハワイでの落ち着いた挙式です。当然、奥さんは僕自身が病気を持っていることは知っていましたが、ご家族にはお伝えしていませんでした。無事ではありましたが、色々な場面で症状が出ました。
■お薬ってハワイに持って行っていいの??
ハワイに向かう2日前、僕は不安で体調が下降傾向でした。その原因は、お薬を持って出国・入国していいのかが不安になり、インターネットで調べると医師による証明書があればとの記載があり、どうしようか、別に大丈夫だろう、いやもし何かあったらと完全に混乱し、不安が積み重なって体調を崩していました。
病院に連絡し、「おそらく大丈夫でしょう」と言われつつも、結婚式前に何かあったら嫌だったため、安心のため、英文の診断書を作ってもらいました。高い安心料を払い、気を付けてねと病院の皆さんから送り出されました。
結局、検問や渡航中にお薬を所持していて、問いただされる場面もなく、取越し苦労でしたが、こうゆうことで疲れてしまうことがよくあります。
■チャペルでご家族の前で発作が出たらどうしよう…
ご家族の前で誓いの言葉、ただでさえ、最初で最後の場となる予定のところで不安障害の発作が出てしまったらと予期不安がありました。
牧師からの説明もあまり耳に入ることなく、なんとなく、息苦しさを感じながら、いざ本番へ。結局、ひどい発作は出ないものの、呼吸が早くなっているのか息苦しさをずっと感じたままとなりました。今思うと全体の流れや牧師が話す時間、終えるタイミングをしっかりと把握していれば良かったと思いますが、あとの祭りです。
それでも式後は落ち着きを取り戻し、奥さんや家族と落ち着いた雰囲気でケーキカットや食事を食べることができ、素敵な時間を過ごすことができたので、良かったと思いますし、これまで不安障害はあっても、行動範囲を可能な限り狭めることがないよう山登りや旅行、色々なことをチャレンジし、一つ一つできることを確かめて、自信を付けてきたことが功を奏したと思っています。
今でも時よりダメな場面はありますが、身体と相談しながら、できることを減らさないように気を付けています。
■観光ツアーでのどうしよう…
星空が大好き、サンセットも良い!!とハワイに行くならマウナケア山に行くしかないと計画当初から決めていたのですが、いざ向かうツアーバス内で不安に。それは上に上がれば、上がるほど当然、空気って薄くなりますよね?高山病にならないように身体を慣らしながら山頂へと向かうのですが、これまた、不安障害の僕は持病で息苦しさを感じているのか、それとも高山病で感じているのか、はたまたその両方なのか、とにかく症状が出ていました。結局どちらともつかずではありましたが、山頂までの道中はとても苦しかったです。けれど、そこで見たサンセットがとても綺麗で、その時には僕の不安もどこかに消えていました。マウナケアはお勧めです。
■帰りの飛行機で
無事式も終え、観光やショッピングを楽しむことができ良かったのですが、帰りの飛行機が悪天候でよくゆれて不安感でまた少し息苦しい感じが出たのですが、隣に奥さんもいましたし、少しの時間で治まりました。あとから思えば、もともと飛行機は苦手ではなかったので、時差による身体のリズムの変化や旅行の疲れも原因だったと思います。色々と疲れましたが、奥さん、そして家族と一緒の思い出ができたのはとても貴重でした。コロナ禍で中々旅行に行くことができていませんが、色々な旅割が出て来ているので、そろそろ旅行を復活させたいですね。
小学4年生3学期からの不登校生活
今思えば、病気(不安障害等)の傾向がこの頃より出ていて、学校に行けなくなったのかな?と思いますが、ハッキリとはしません。僕が過ごした長期休暇を綴ってみます。
■ 好きなバラエティ番組、アニメ、漫画を一気に見る、読む
結婚し、こどもが生まれた現在はもうできないのですが、不登校中の僕にとっての至福の時、毎週購入していた少年ジャンプを捨てることなくためにため、積まれたジャンプを読みまくる。ワンピースやハンター✕ハンター、こち亀、ナルト、ダイの大冒険、とにかくすべてを読み漁っていました。毎日が宿題のない夏休み、時間はたっぷりあります。部屋のスペースはジャンプに埋め尽くされる不登校児の汚部屋でした。
また、ドラえもんの映画は録画していたものをひたすら見ていた時期があり、今でもこどもが寝る前に絵本を読むのと同じように、記憶をたどりながら声だけで、映画のストーリーを話してあげることができます。こどもは目をつむりながら、イメージしてそのまま夢の中に入ることがあります。
バラエティー番組もめちゃイケ、笑う犬の冒険なを見まくっていました。27時間テレビも録画をして、面白い箇所を何度も見ていました。
■ 学校には行かない。けど塾などの習い事にはいく。
小学校4年生の後半~5年生頃までは塾などの習い事に行っていました。けれど、その時の友人から「学校に来ないのに、なぜ、ここには来れるの?」と聞かれても、返す言葉が当時の僕にはなく、しだいに塾や習い事にも行くことができなくなりました。
それ以降、少しずつ友達とも疎遠になっていき、6年生~中学2年生は授業には出ることはほとんどなく、時より中間テストや期末テストだけを受けるっということをしていました。
そのため、高校進学のために中学3年生の時だけ、通学を開始すると、僕自身も顔つき、身体つきは変わっていますが、友達だった人たちも変わりに変わっていて、タイムスリップした気分でした。疎遠になっていたため、何を話していいのかがわからず、友達ではなくなったんだと強く感じて、学校に行くことができていた幼い頃のような関係には戻れないと寂しい気持ちになりましたし、実際、友達に戻ることはありませんでした。
■ 小・中学校が終わる時間は身をひそめる生活
学校に完全に行けなかった6年生~中学2年生の間は、とにかく知り合いに会うことを避けていました。そのため、少年ジャンプを買いに行くなどの外出をする用事がある時は、とにかく、授業がある時間中に行動しましたし、夏休みの時期は極力外出をさけたりと、誰とも会わないようにしていました。
学校に行くことができていない自分を認めることができず、恥ずかしくて、嫌いだったのだと思います。見つからないよう、見つからないよう、外に出るのは緊張で、何かの犯人になったかのようでした。
■ 学校に行けている子はライバルへ
前述のとおり、学校の行くことのできていない自分を認められなかった僕は、中間や期末テストで「学校に行くことができる子よりもテストで良い点を取ってやる、学校に行っている子よりも僕は優秀なんだ、学校なんて必要ない、先生なんて必要ない、参考書があれば十分」と屈折した気持ちが育ちました。理由はどうあれ、この時に勉強をしていたことが、後々の大学進学等に繋がり、良い面もあったのですが、今でも先生って必要?っと思ってしまうところがあり、自分の子供の前で言わないよう気を付けています。
■ 大人になって思うこと
この時に親の言うことを聞いて、せめて規則正しい生活をしていれば、不安障害とここまで長く付き合うこともなくすんだのではないかと思います。中々、昼夜逆転等の沼にハマってしまうと抜け出せないんです。
また、違う角度で、自分を褒め、認めてあげることができれば良かったのにと思います。学校に行くことができていなくても、自分はダメだと思う必要なんてなく、自尊心を傷つけるようなことをしていなければと思います。
大人になっても中々できませんが、自分を褒めることも大事ですよね。
処方箋をもらうためのクリニック
発症から20年が経過する中、クリニックへ行くのは処方箋をもらうためだけの時期がありました。治癒ではなく、この病気といかにうまく付き合うかを考えていたため、安定していれば医師と話す必要がなかったからです。
■とあるクリニックでの処方まで
心療クリニックの扉をあける。先生は僕の前の人と診察室で話をしているため、待合室で待機。診察室から先生が出て来て僕の顔を見ると、「いつもの薬だしておくからね」「診療代○○○○円ね」と診察室に入ることなく、処方箋とお金のやり取りのみ、診療明細書には診察の点数があるものの…近況を伝えることもなく、これは良いのか?と思いながらも時間短縮でとても楽でした。とにかく現状を維持する場合には良かったのですが、のちに症状が悪化した時にはそのクリニックが信用することができず、結局は心身が一番しんどい時になって、転院まですることになりました。
■信頼できる心療クリニックてあるの?
僕が医院で受けた治療は基本どこも最初は同じです。少量の抗うつ薬や抗不安薬等を処方し、副作用が出ないかを確認、副作用が出ているようであれば、薬を変更、また経過を1週間程度みて、副作用が出ていないようであれば、お薬を増量し、様子を見て、経過が良ければ、そのお薬で決められている1日の最大量まで増やし、効用を診ていくというものでした。
先生からは体調はどうか、食事はとれているか、寝れているかと質問を受け、答えるのが基本で、時より不安への対処方法のアドバイスをもらうこともありますが、どちらかというと落ち着ける方法を自分で見つけるようにというスタンスの先生が多い印象です。30分待って5分診療、最大でも10分程度が目安だと思っています。先生が話を聞いてくれないと感じるかもしれませんが、人気がある医院だと多くの患者がいる中で、すべての話を聞くのは困難だと思います。
また、お薬によっては定期的な血液検査が必要なものがあるため、処方されたお薬の情報を調べて、検査が必要なようなことが書いてあれば、先生に聞いてみると良いと思います。僕が処方箋だけをもらっていたクリニックは、そのような説明は残念ながらありませんでした。(現在の医院では定期的な血液検査や僕の健康診断の結果等も見てもらっています)
先生との相性も当然あると思いますが、清潔感のあるクリニック、雰囲気が落ち着きやすいクリニック、印象で決めても良いと思いますし、自宅から近く通いやすいという理由でも良いと思います。
結局は、自分自身が信頼できるかどうかだと思いますし、そのポイントをどこに置くかだと思っています。(僕自身は清潔感のあるクリニックが良いと思っていました)
■治療が長引くようであれば、公的制度の利用を
病院から案内を受けることはなかったのですが、自立支援医療制度というものがあります。医師からの診断書等が必要とはなりますが、医療費負担が大きいような場合には手続きをすると良いと思います。また、別記事でも記載を考えたいと思います。
■余談
お医者さんから落ち着ける方法を見つけるようにという指示に対して、僕は家ではメンタルフルネス、職場ではお手洗いで手を水を溜めて、冷たさや穏やかさを感じるようにしています。人の身体のほとんどが水分と考えると、水に触れるのは悪くないのかなっと思えたからです。
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パニック障害の発症と安定した経過
僕がパニック障害を発症したのは17歳です。その後、不安障害やうつ病を併発しながら15年以上が既に経過しました。人生の半分近くは病気とともに過ごしています。
■パニック障害の発症
不登校が続き、情けない気持ち
小学校4年生の後半から不登校傾向が続き、6年生や中学1年~2年とまったく通うことができなかった学校(小学校は卒業式すら出ていません。母は卒業式の服を用意していたように思いますが、親の想いにも応えることができませんでした)、中学3年生のみ進学のためだけに復学し、その無理のせいか高校進学後は過敏性腸症候群で授業中クラスにいることができず、そのまま短絡的に中退をした当時、兄弟が就職や進学を決め、前進しているのに対して、まったく何もできていない自分に対して、情けない思いを日々感じていました。
ある時、気分が一瞬ではあるものの、もの凄い勢いで落込む、恐怖心にも似た感覚がでてくることがありました。その時は身体症状はなく、こんな落込みもあるんだな程度で気にすることもなく過ごしていました。
姉の交通事故からの身体症状のはじまり
そんなある日、姉が交通事故に遭い、家族で病院へ向かいました。病院へ行く間も、姉が心配でしたし、妙な気分だったように記憶しています。病院では姉は軽傷で特に後遺症等が残るようなものではなかったのですが、この時に僕は院内で息苦しさを感じ、院内で横になり、その後症状はすぐ治まりましたが、”何かおかしい”感じがすると思うようになりました。
漠然と”何かおかしい”と感じ続けて
学校にも行かず、昼夜逆転の生活、”何かおかしい”、”何かおかしい”と思うことが増えていき、ある時、運動不足の解消のため、軽い筋トレをした時、強い息苦しさに襲われ、呼吸ができない、呼吸をしても、しても強い苦しさが続き、居ても立っても居られない状態になりました。
病院へ行ってもすぐには消えない症状
正直、記憶が曖昧なところもありますが、この発症以降、強烈なものはないものの、心に強い不安感、息苦しさ、ここから解放されるまでにかなりの時間を要しました。発症後は幼い頃からかかりつけだった病院へ行き、不安が和らぐ薬を飲むこととなりました。それでも不安感と息苦しさ、歩けば浮遊感など強い身体症状が落ち着くことはありませんでした。あとになって薬の副作用等もあったとも思いますが、17歳、親が一緒に居ないことに強烈な不安感があり、お願いだからとパートをお休みしてもらったり、一人で寝ることもできず、親に添い寝で背中をさすってもらったりすることで、なんとか1日、1日を生きることしかできませんでした。
身体に合う薬が見つかって
僕はコンスタンという抗不安薬が合い、前述のように誰かがいないとダメっということはなくなりましたが、常に強弱はあるものの不安感が胸のあたりにあるのと、浮遊感(足が地面に沈み込むような感覚)や強い吐き気が出たりと、簡単には症状は治まりませんでした。
■発症後にしたこと
できることを増やしていくこと、「僕はできる、大丈夫」と思えることを増やしていくようにしました。
ジョギング
息苦しい感じはあるものの、それに耐えられるようになることを信じて、ジョギングをするようになりました。あえて、同じような状態で息苦しさを感じることで耐性を付けようとしました。少しずつ距離を伸ばし、息苦しくても発作は起きないということを確かめて行きました。
一人で行けるところを増やしていく
不安から遠くに行くことが億劫になっていましたが、行動範囲を制限してどこにも行けなくなってしまうのは嫌だったので、少しずつ自宅から離れた場所へ、映画館や美容院、歯医者等行く先や移動手段も自転車や電車、バスと徐々に増やし、できた先で”僕にはできる、大丈夫”と確かめていきました。
アルバイト
抗不安薬のおかげだったのか、不安感はあるものの、何か行動に移していかないとと行動的になっていた僕は急にバイトをし始めました。近くのイオンの清掃のアルバイトでした。朝早かったものの、朝起きのリズムを作ることができたことが良かったです。けれど、身体症状はまだあり、特に吐き気が強い日が多く、ソルマックを飲んでから職場に向かっていましたし、帰ってきたらヘトヘトで寝る生活でした。続けることができたのは3か月程度でしたが、アルバイトのお金で父親にビールを買って渡したりと自分を認める行動ができたように思います。
■その後も付き合う病へ
パニック障害を題材とした本を読むと多くの人は発症当初に適切な対応ができていれば、完治することもあるとあります。僕の場合は残念ながらそこには当てはまらず、ここから15年以上付き合う病気となり、不安障害やうつ病を併発することもありました。そのことについても徐々に記事にしていきます。
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高校中退と就職 -就職活動-
僕は高校進学後、過敏性腸症候群が現れ、毎日が苦痛でした。激しい雨の日、傘も忘れ、ずぶ濡れになりながら自転車で高校から帰宅したあの日、ピンっと張った糸が切れて、再び学校に行くことができなくなりました。そして、そのまま高校を中退しました。
■高校中退のメリット・デメリット
メリットはあるのか?
高校を中退することにメリットはないと思います。行くことができるのであればそのまま行く方がその後の就職活動等において余計なものを背負う必要がありません。また、様々なサポートがあるとはいえ、高校卒業という学歴は就職にあたって最低限必要なものであると思います。そのため、もし、まだ中退を悩んでいるのであれば、一旦、心療内科等へ行く、学校側に協力を得られることがないか、具体的な手立てをうってからで遅くないので、最終判断は身体が回復している時が望ましいと考えます。(体調が悪いと盲目的になりやすいです、誰かの助けを得ることも考えてみてください。当時の僕は完全に盲目になっていました)
※あくまで一般就職を考えた場合を想定しています。
デメリットは何か?
履歴書には学歴の記載欄があります。高校中退をして、高認資格(僕の頃は大検)を得て、大学へ入学し、卒業をした僕の履歴書の学歴欄は↓のとおりになります。様式によっても記載方法は異なりますが、基本、中学卒業後からのことを記載する必要があるため、高校中退の事実を記載することになります。
いかがでしょうか。目立ちますよね?書類選考でもそうですが、運よく面接へ進める時にも書面上、目立つので、面接官から中退の理由を聞かれますし、説明をする必要があります。多様性が認められる社会であってもまだまだ簡単には理解されません。書類審査だけではじかれたところもおそらく沢山あったと思います。
■面接時に高校中退をどのように説明したか
「履歴書をみると、とさしさんは高校を辞めているようだけど、何かあったの?」
「親御さんはそのことに何も言わなかったの?」
面接の時に聞かれることの多かった質問です。正解はないと思いますが、僕はこの質問があった時には「当時は高校生活に馴染むことができず、短絡的に高校を辞めることを選択しました、そのことは今では後悔していますし、だからこそ、大学に入って色々学び直すんだ!と大検を取得し、進学をして、大学生活では○○に力を入れてきました」と失敗から学び、そして立ち上がるストーリー展開で説明するようにしました。持病である不安障害等についてはクローズで就活をしていたため、一切触れていません。
親御さんは?という問いに対しては「当時は僕の考えに対しては何も言いませんでした。けれど、心配をたくさんかけましたし、その分、大学生活を楽しんでいる姿を見せることができたので、今は喜んでいます」と説明しています。
ここまで伝えて、さらに突っ込んだ質問をしてきた会社はありません。話している時は他の学生とは違う体験をしている僕の話に興味を持ってもらっていたように感じていました。それに無事、何社か内定を頂戴することもできましたし、その後転職活動をした時も同じように質問を受け、回答し、内定を頂戴したこともありました。(結局、最終条件が合わず、転職はしていませんが)
■高校中退後、可能なら大学を目指そう!
中退後、高認を取得し、可能であれば大学入学、卒業を目指しましょう。大学であれば、自分が好きなことを学ぶことができますし、中退歴は付きますが、大卒という称号を得られ、就職先の選択肢が増えます。就職後、働くのも大変ですが、それは別の記事で書きたいと思います。
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