10歳から不登校だった僕のブログ

不登校だった僕の復学や患った不安障害等との付き合い20年の記録です

不登校は甘えや怠け?

不登校は甘えや怠けかもしれません

10歳で不登校傾向が現れた僕も不登校の一部は甘えや怠けと感じています。僕自身もとにかく、怠けて、家にいたいという気持ちが湧き出てくるからです。通常であれば、この気持ちを我慢できるのですが、我慢がきない病が表に出てきている時はとにかく嫌で、嫌で、大人になった今でもコントロールに手を焼いています。

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もし、僕と同じように不登校となる原因や理由がなく、湧き出てくる行きたくないという気持ちによって、不登校となっている場合は将来に向けても、この気持ちと上手に付き合っていく必要があると思います。学校に行きたくないが会社に行きたくないに置き換わるだけで、就職できたとしても同じ困難に立ち向かうことになるからです。

行きたくないと思うのは誰だって同じ、みんな我慢して行っている」、この言葉も頭では理解できるのですが、我慢ができない、あるいはコントロールが難しい病を患っているとしたらどうでしょうか。うつ病や不安障がい、その他にも双極性障がい等脳の機能低下によるものかもしれません。甘えや怠けと言えばそうなのですが、本人がコントロールが難しいケースもあるということを知っておくこと、その場合は心療内科等への受診による服薬や日常生活の過ごし方、本人の思考の癖や周囲の理解が必要であることを知っておくと良いと思います。

僕自身もパニック障害から不安障害→うつ病双極性障害Ⅱ型...かもしれないという通院の経過から少しずつ、「自分は我慢しづらい脳を持っている」と知るようになり、中々受け止めることができなかったのですが、振り返ってみると当てはまる部分もあり、そうであれば、生活リズムを可能限り一定に過ごすことが有効であることや対処法を書籍等で読み、深めることができます。

繰り返しになりますが、不登校は甘えや怠けかもしれません。ただし、我慢がしづらい状態や病気が隠れている可能性を考慮に入れて、本人、周囲も経過をみていく必要があると思います。

 

今週は自分に優しく

■自分を褒めて良い日

今週は連休明けの週で、休むための理由探しをしていませんでしか。暑さや空調の影響、思わぬ大雨、理由は様々なことがあると思います。今週は学校、会社に行けただけで自分を褒めて良いと思います。
けれど、どれだけ休んでも疲れが回復しない、それどころか、休みの間も仕事で頭がいっぱい、気分は憂うつ、他に興味や関心が向かないような場合は注意が必要です。そして、さらに出社はしたものの、頭痛や吐き気、仕事に集中できない、簡単な事でミスを起こすなど、普段の自分とは違うと感じている場合には赤信号です、お休みが必要な状態かもしれません。

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 自分にマルを付けてあげましょう。

■会社を休まないといけないとなった時に備えて

休むなんて考えられない、周囲にも迷惑をかけてしまう、家族もいて、その期間の生活費はどうするのか等様々な不安が浮かんでくると思います。実際、僕自身も休職を経験し、同じような不安がありました。
実際にその時になると会社の就業規則等で休職がどのように定められているのか、どのように扱われるのか手元にないため、わかりません。どこまでの期間休むことができて、どこまでの期間までがタイムリミット(退職)となるのか、会社の就業規則に目を通しても良いかもしれません。
実際、僕の勤め先は勤続年数によってタイムリミットが違いましたし、傷病手当金の他にも制度があることもわかりました。復職後、就業規則をみましたが、僕が使った制度はここに書かれていることだと改めて確認しましたし、色々な権利、義務が書かれている大事な規則だと思います。ぜひ、一度目を通してください。

■生活資金の中心は貯金と傷病手当金

休職が必要になった場合は、まずは生活資金です。会社員であれば傷病手当金が資金源になると思います。就労状況、年数によっても支給対象可否が変わりますが、標準報酬月額(おおよその毎月の給与(税引き前)の直近1年間平均)の3分の2を日額に計算して、欠勤日数分が支給されます。(給与支払やその他の給付がある場合は差引されるケースがあるようです)

 例)標準報酬月額300,000円 ×2/3 = 200,000÷30日=平均日額6,666円

   欠勤日数20日であれば、平均日額6,666円×20日= 傷病手当金133,333円

注意点は、社会保険料(厚生年金保険料、健康保険料)は休職期間中であっても支払をする必要があります。支払方法は会社によって立替や振込等になるかと思いますが、この支払があるため、イメージとしては毎月の手取りより若干少ない額が手元に残る感じでした。そのため、貯金の切り崩しはやはり必要となります。

傷病手当金の受給期間は2022年1月の改訂で累積で1年6ヶ月となりました。(従来は受給開始日より1年6ヶ月の間)そのため、1年6ヶ月の間に復職した期間があれば、一旦は受給期間の計算はストップし、再度、休職を繰り返した場合は、再び受給期間の計算がスタートし、累積で1年6ヶ月まで支給されるようです。改訂の適用前より受給されていた場合は従来どおり受給開始日によるため、復帰後相当期間就労ができ、社会的治癒が保険組合より認められると再受給が可能なケースもあるようです。具体的な判断は、各保険組合が決定者であるため、加入している健康保険組合に確認が必要です。

何よりは身体を壊さないこと、健康第一です。予防的な考え方として、連休明けや休み明けは出社、登校できただけで自分を褒めてみましょう。

休職して、心を休ませよう

連日、午前0時過ぎまで働き、新たな部署、新たな業務で効率的に業務を行えていない。「何をしているんだ」と心の中で何度も、何度も思った。上司もピリピリしている、相談がしづらい、あげくには「君の年次ならもっと早く出社しなさい」「無駄な動きが多い」「甘い評価を受けて」と叱責も受けた。僕はどんどん塞ぎ込んでいき、深夜に帰宅後、子どもの寝顔を見ながら、虚しさがこみ上げて来て、涙が流れました。

■ 僕が休職をするまで

 入社から8年後、部署異動が決まり、慌ただしい日々を過ごしていました。慣れない空間、慣れない人、課長を除くと年次では一番上になっていました。まだまだ若手よりの中堅の感覚でいましたが、課長の右腕にならなければいけないと思っていました。

 しかし、思いとは逆で、課長のイライラの的になり、慣れない業務で効率的にできず、業務過多で連日深夜まで残業が続きました。朝は5時半に起き、急いで準備をし、子どもを保育園まで送迎、始業30分前までには着き、どうしても遅れる日はあったとは思いますが、上司にも子どもを送迎していることを伝えていたのにも関わらず、ある日「今度の面接でも伝えようと思っていたが、君の年次ならもっと早く出社しなさい」と言われました。その時にはもう、僕の心身が疲れ切っていて、上司が何を言っているのか、なぜ、了承を得ていたことを蒸し返すように言ってくるのかがわからず、反論できませんでした。

 

 そして、心身の疲れがピークに達し、簡単な業務でミスを起こして、上司から叱責を受け、その時に視界がぐにゃっと曲がる感覚を覚え、頭痛や息苦しさ、不安感等持病も重なり、悪い方向に進んでいると強く感じていました。

 「もう、何もできない、役にも立てない」、周囲の後輩たちのことを考えれば考えるほど「無責任、根性なし」と虚しい気持ちでいっぱいになり、涙がこぼれ、身体は重く、会社を辞めたくて仕方がありませんでした。

 かかりつけの病院で現状と症状を伝えると、「うつ状態により3か月間の自宅療養を要す」と診断を受けました。新たな部署で活躍したい、課長の右腕になる、僕の期待とはまったく違う結果となっていました。

■ 休職の原因を考えると

 現在は復職をし、5年が経過しています(再び調子が悪く、また休職しそうですが...)が、この時は新たな部署で活躍をする!課長の右腕になる!と期待に胸を膨らませて意気込み過ぎ、そして、その思いとは裏腹にまったく活躍できない、そして課長からも認められない現実を一人で抱え込み、誰にも話をすることができなかったことが大きかったように思います。不登校から大検取得、大学へ進学し、就職、ほとんどのことを一人で解決してきたため、誰かに頼る、寄りかかることが苦手だったのです。(もちろん、不安障害という病気を元々持っていたことも原因ではあります)

 休職の診断を受けるまでは何度も仕事を辞めることを考えていましたが、心身が疲れていて、冷静な判断ができない状態であったと思い、辞職ではなく、休職を選択しました。大きな決断は休んでからでも良いと考えました。

 幸い、ファイナンシャルプランナーの資格を取得していて、傷病手当金等、休職の間の生活費については十分なんとかできると知っていたのも大きかったです。

■ 心をやすませよう

 休職期間中は服薬の変更やこれまで通院していた病院を替えて、別の病院へと通い始めました。最初はパニック障害が起きた時と同じような状況になり、不安感から電車に乗ることも難しい状況に陥ってしまい、本当に復職できるのかとても心配になりました。

 

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 しかし、身体に合う薬があり、ある程度、休職する以前の身体の感覚に近い状態にまでなり、先生から復職に向けて、不安感が出てきた時の対処法を考えてみてはと言われ、どのようにするのがいいか迷いましたが、その時に「プレジデント」という雑誌をご存知でしょうか。↓の記事を本屋で読み、マインドフルネスのことを知り、心を休ませる、整える時に使うようにしています。

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 その他にも、お手洗いで手に水を溜め、水の冷たさや柔らかさを感じて、心を鎮めるようにしています。コロナ禍で手洗い、うがいは大切ですし、その時に少し心がざわついているような感じがある時に使っています。水は人間の身体のほとんどを占めていますし、柔らかい優しい感じでもありながら、勢いをつければ剣をも折ることができる程、固く強くもなります。そんなことを思いながら、水の優しさと強さで心を和ませるようにしています。

 

 

学校や仕事を休む理由

月曜日の朝、身体が重たくて、今日は休みたいという考えが頭をよぎる、いや、昨日の夜から既にその前兆があったように思う。いやいや、金曜日から既に月曜日に何を理由にして休むか既に考えていたのではないだろうか

■ 小学校を休みたい

 突如として現れる「行きたくない」という気持ち、どこから来たのだろうか。友達?友達とも仲良くできている。先生?元気いっぱいな先生、みんなからも人気で担任になってほしい先生だと思う。勉強?進学する度に難しくなるものの、勉強についていけない程ではない、47都道府県を漢字で覚えるテストだってクラスで5番以内には覚えていました。

 僕にはふつふつと沸いてくるように「休みたい」という気持ちがやってくることが不登校になる前からあり、休みたくて、休みたくて、前日に冷たい水をかぶって、風邪をひこうと何度も試みたけれど、一度たりとも風邪をひくことはありませんでした。

 そんな時に僕が考えたのは、ホッカイロを脇に挟んで、少しあたためて、温度計ではかる。完全に熱がある状態、上がり過ぎて、40℃を超えた時は何かの間違いと、誤魔化しつつ、もう一度、図ってみます、そして38℃程度だったら、親に伝えて、休む、先生に連絡をしてもらうことができれば大成功です。僕の心は落ち着いていきます。

 今思えば、こんなことをしなくても、もっと素直に伝えればよかったように思うけれど、親に対しても不信感がありました。小学校2年生の時、僕が休みたくて、学校に行かないでいると、先生がお家までやってきて、僕は慌てて、外の物置に身をひそめました。見つかりそうになると、先生とのかけっこがスタート、リレーのアンカーをつとめて、走りに自信がある僕でも流石に大人、しかも男性の若い先生には敵わない、すぐに捕まって学校へ連行されました。

 

 僕は学校を休むことに関しては、親に素直に伝える事をやめました。

 このときのことを思うと、親に対して、こんなに嫌がっていたのだから、理由なんていいから休ませてくれれば良かったのに思う。少し休んで元気が戻ったら、再び行くことができるはず...。

 けれど、自分が親になってみて、子供は既に小学生、今は元気に行っているけれども、学校を休みたいとなったら、休むことが癖になっても困るし、ましてや不登校になったら、、、それでも、心身が疲れた様子がないか、子供の話をしっかりと聞けているか、幼いからこそ、上手に伝えられないだけでないないか、学校で何かが起こっていないか、冷静になって子供の気持ちに傾聴ができているかは気をつけたいと思います。

 

 

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■ 会社を休みたい

 大学を卒業し、就職してからも、沸々と気持ちが湧きあがってくる。勿論、子供の時とは違い、コントロールすることはできるけれども、無理をし過ぎると僕の身体は悲鳴を上げて、土日のお休みが丸々うずくまる日となってしまうことがあります。

 僕が患っている不安障害は、常に一定程度の不安感があり、時には息苦しさを感じることもあり、そのため、心身が疲れるのがとても早いと感じています、心の体力が少なく、すぐにバッテリー切れを起こします。

 そのため、勤め先に病気のことをクローズしていた時期は、あえて休むことを心掛け、働き方改革が行わえる前だったので、まだまだ休むことに対して、理解を得られづらい時期ではあったように思いますが、上司に電話で連絡して、お休みをもらいます。

「申し訳ありません、扁桃腺が腫れているのか、熱と倦怠感が強く、本日お休みを頂戴したいです。業務については、本日必ず対応というものはありません

「申し訳ありません、食あたりなのか、昨晩から吐き気が続いていて、お腹も下しており、寒気をするので、本日出社が難しいです。業務については、本日、必ず対応というものはありません

 休むためのフレーズは決まっていました。上司は体調不良のことよりも、業務のサポートが必要かどうかを気にしているため、必ず、今日しないといけないことがあるのか、ないのかを必ず伝えるようにしています。僕自身、急に休みたい気持ちがわいてきた時、心身を休めないといけないとなった時の休む基準としても本日絶対の案件の有・無を重要視しています。

 65歳、70歳まで働こうと思うと、バリバリ働くのは理想ではありますが、僕のように持病がある場合には、細く長く続くようにを心掛けて仕事と向き合っています。

 休むことは無責任??そう思う方もいらっしゃるかもしれません。けれども、無理をして、長期に休むこととなり、席を空ければ、さらに迷惑をかけることになるかもしれません。そうなる前の予防策として、僕はあえて休むこと、そんな自分を許すようにしています。月曜の朝、つらすぎるのであれば、1本電話を入れ、休むのも悪くないですよ。

ハワイ挙式は症状と付き合いながら

 9年前、奥さんとの挙式は海外挙式でした。両家とも家族のみで穏やかに、ハワイでの落ち着いた挙式です。当然、奥さんは僕自身が病気を持っていることは知っていましたが、ご家族にはお伝えしていませんでした。無事ではありましたが、色々な場面で症状が出ました。     

 

■お薬ってハワイに持って行っていいの??

 ハワイに向かう2日前、僕は不安で体調が下降傾向でした。その原因は、お薬を持って出国・入国していいのかが不安になり、インターネットで調べると医師による証明書があればとの記載があり、どうしようか、別に大丈夫だろう、いやもし何かあったらと完全に混乱し、不安が積み重なって体調を崩していました。

www.mhlw.go.jp

 病院に連絡し、「おそらく大丈夫でしょう」と言われつつも、結婚式前に何かあったら嫌だったため、安心のため、英文の診断書を作ってもらいました。高い安心料を払い、気を付けてねと病院の皆さんから送り出されました。

 結局、検問や渡航中にお薬を所持していて、問いただされる場面もなく、取越し苦労でしたが、こうゆうことで疲れてしまうことがよくあります。

■チャペルでご家族の前で発作が出たらどうしよう…

 ご家族の前で誓いの言葉、ただでさえ、最初で最後の場となる予定のところで不安障害の発作が出てしまったらと予期不安がありました。

 牧師からの説明もあまり耳に入ることなく、なんとなく、息苦しさを感じながら、いざ本番へ。結局、ひどい発作は出ないものの、呼吸が早くなっているのか息苦しさをずっと感じたままとなりました。今思うと全体の流れや牧師が話す時間、終えるタイミングをしっかりと把握していれば良かったと思いますが、あとの祭りです。

  

 それでも式後は落ち着きを取り戻し、奥さんや家族と落ち着いた雰囲気でケーキカットや食事を食べることができ、素敵な時間を過ごすことができたので、良かったと思いますし、これまで不安障害はあっても、行動範囲を可能な限り狭めることがないよう山登りや旅行、色々なことをチャレンジし、一つ一つできることを確かめて、自信を付けてきたことが功を奏したと思っています。

 今でも時よりダメな場面はありますが、身体と相談しながら、できることを減らさないように気を付けています。

  

■観光ツアーでのどうしよう…

 星空が大好き、サンセットも良い!!とハワイに行くならマウナケア山に行くしかないと計画当初から決めていたのですが、いざ向かうツアーバス内で不安に。それは上に上がれば、上がるほど当然、空気って薄くなりますよね?高山病にならないように身体を慣らしながら山頂へと向かうのですが、これまた、不安障害の僕は持病で息苦しさを感じているのか、それとも高山病で感じているのか、はたまたその両方なのか、とにかく症状が出ていました。結局どちらともつかずではありましたが、山頂までの道中はとても苦しかったです。けれど、そこで見たサンセットがとても綺麗で、その時には僕の不安もどこかに消えていました。マウナケアはお勧めです。

■帰りの飛行機で

 無事式も終え、観光やショッピングを楽しむことができ良かったのですが、帰りの飛行機が悪天候でよくゆれて不安感でまた少し息苦しい感じが出たのですが、隣に奥さんもいましたし、少しの時間で治まりました。あとから思えば、もともと飛行機は苦手ではなかったので、時差による身体のリズムの変化や旅行の疲れも原因だったと思います。色々と疲れましたが、奥さん、そして家族と一緒の思い出ができたのはとても貴重でした。コロナ禍で中々旅行に行くことができていませんが、色々な旅割が出て来ているので、そろそろ旅行を復活させたいですね。

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処方箋をもらうためのクリニック

発症から20年が経過する中、クリニックへ行くのは処方箋をもらうためだけの時期がありました。治癒ではなく、この病気といかにうまく付き合うかを考えていたため、安定していれば医師と話す必要がなかったからです。

■とあるクリニックでの処方まで

 心療クリニックの扉をあける。先生は僕の前の人と診察室で話をしているため、待合室で待機。診察室から先生が出て来て僕の顔を見ると、「いつもの薬だしておくからね」「診療代○○○○円ね」と診察室に入ることなく、処方箋とお金のやり取りのみ、診療明細書には診察の点数があるものの…近況を伝えることもなく、これは良いのか?と思いながらも時間短縮でとても楽でした。とにかく現状を維持する場合には良かったのですが、のちに症状が悪化した時にはそのクリニックが信用することができず、結局は心身が一番しんどい時になって、転院まですることになりました。

  

■信頼できる心療クリニックてあるの?

 僕が医院で受けた治療は基本どこも最初は同じです。少量の抗うつ薬抗不安薬等を処方し、副作用が出ないかを確認、副作用が出ているようであれば、薬を変更、また経過を1週間程度みて、副作用が出ていないようであれば、お薬を増量し、様子を見て、経過が良ければ、そのお薬で決められている1日の最大量まで増やし、効用を診ていくというものでした。

 先生からは体調はどうか、食事はとれているか、寝れているかと質問を受け、答えるのが基本で、時より不安への対処方法のアドバイスをもらうこともありますが、どちらかというと落ち着ける方法を自分で見つけるようにというスタンスの先生が多い印象です。30分待って5分診療、最大でも10分程度が目安だと思っています。先生が話を聞いてくれないと感じるかもしれませんが、人気がある医院だと多くの患者がいる中で、すべての話を聞くのは困難だと思います。

 また、お薬によっては定期的な血液検査が必要なものがあるため、処方されたお薬の情報を調べて、検査が必要なようなことが書いてあれば、先生に聞いてみると良いと思います。僕が処方箋だけをもらっていたクリニックは、そのような説明は残念ながらありませんでした。(現在の医院では定期的な血液検査や僕の健康診断の結果等も見てもらっています)

 先生との相性も当然あると思いますが、清潔感のあるクリニック、雰囲気が落ち着きやすいクリニック、印象で決めても良いと思いますし、自宅から近く通いやすいという理由でも良いと思います。

 結局は、自分自身が信頼できるかどうかだと思いますし、そのポイントをどこに置くかだと思っています。(僕自身は清潔感のあるクリニックが良いと思っていました)

  

■治療が長引くようであれば、公的制度の利用を

 病院から案内を受けることはなかったのですが、自立支援医療制度というものがあります。医師からの診断書等が必要とはなりますが、医療費負担が大きいような場合には手続きをすると良いと思います。また、別記事でも記載を考えたいと思います。

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■余談

 お医者さんから落ち着ける方法を見つけるようにという指示に対して、僕は家ではメンタルフルネス、職場ではお手洗いで手を水を溜めて、冷たさや穏やかさを感じるようにしています。人の身体のほとんどが水分と考えると、水に触れるのは悪くないのかなっと思えたからです。


 

パニック障害の発症と安定した経過

僕がパニック障害を発症したのは17歳です。その後、不安障害やうつ病を併発しながら15年以上が既に経過しました。人生の半分近くは病気とともに過ごしています。

パニック障害の発症

 不登校が続き、情けない気持ち

 小学校4年生の後半から不登校傾向が続き、6年生や中学1年~2年とまったく通うことができなかった学校(小学校は卒業式すら出ていません。母は卒業式の服を用意していたように思いますが、親の想いにも応えることができませんでした)、中学3年生のみ進学のためだけに復学し、その無理のせいか高校進学後は過敏性腸症候群で授業中クラスにいることができず、そのまま短絡的に中退をした当時、兄弟が就職や進学を決め、前進しているのに対して、まったく何もできていない自分に対して、情けない思いを日々感じていました。

 ある時、気分が一瞬ではあるものの、もの凄い勢いで落込む、恐怖心にも似た感覚がでてくることがありました。その時は身体症状はなく、こんな落込みもあるんだな程度で気にすることもなく過ごしていました。

  

 姉の交通事故からの身体症状のはじまり

そんなある日、姉が交通事故に遭い、家族で病院へ向かいました。病院へ行く間も、姉が心配でしたし、妙な気分だったように記憶しています。病院では姉は軽傷で特に後遺症等が残るようなものではなかったのですが、この時に僕は院内で息苦しさを感じ、院内で横になり、その後症状はすぐ治まりましたが、”何かおかしい”感じがすると思うようになりました。

 漠然と”何かおかしい”と感じ続けて

 学校にも行かず、昼夜逆転の生活、”何かおかしい”、”何かおかしい”と思うことが増えていき、ある時、運動不足の解消のため、軽い筋トレをした時、強い息苦しさに襲われ、呼吸ができない、呼吸をしても、しても強い苦しさが続き、居ても立っても居られない状態になりました。

 病院へ行ってもすぐには消えない症状

 正直、記憶が曖昧なところもありますが、この発症以降、強烈なものはないものの、心に強い不安感、息苦しさ、ここから解放されるまでにかなりの時間を要しました。発症後は幼い頃からかかりつけだった病院へ行き、不安が和らぐ薬を飲むこととなりました。それでも不安感と息苦しさ、歩けば浮遊感など強い身体症状が落ち着くことはありませんでした。あとになって薬の副作用等もあったとも思いますが、17歳、親が一緒に居ないことに強烈な不安感があり、お願いだからとパートをお休みしてもらったり、一人で寝ることもできず、親に添い寝で背中をさすってもらったりすることで、なんとか1日、1日を生きることしかできませんでした。

 身体に合う薬が見つかって

 僕はコンスタンという抗不安薬が合い、前述のように誰かがいないとダメっということはなくなりましたが、常に強弱はあるものの不安感が胸のあたりにあるのと、浮遊感(足が地面に沈み込むような感覚)や強い吐き気が出たりと、簡単には症状は治まりませんでした。

   

■発症後にしたこと

 できることを増やしていくこと、「僕はできる、大丈夫」と思えることを増やしていくようにしました。

 ジョギング

 息苦しい感じはあるものの、それに耐えられるようになることを信じて、ジョギングをするようになりました。あえて、同じような状態で息苦しさを感じることで耐性を付けようとしました。少しずつ距離を伸ばし、息苦しくても発作は起きないということを確かめて行きました。

  

 一人で行けるところを増やしていく

 不安から遠くに行くことが億劫になっていましたが、行動範囲を制限してどこにも行けなくなってしまうのは嫌だったので、少しずつ自宅から離れた場所へ、映画館や美容院、歯医者等行く先や移動手段も自転車や電車、バスと徐々に増やし、できた先で”僕にはできる、大丈夫”と確かめていきました。

 アルバイト

 抗不安薬のおかげだったのか、不安感はあるものの、何か行動に移していかないとと行動的になっていた僕は急にバイトをし始めました。近くのイオンの清掃のアルバイトでした。朝早かったものの、朝起きのリズムを作ることができたことが良かったです。けれど、身体症状はまだあり、特に吐き気が強い日が多く、ソルマックを飲んでから職場に向かっていましたし、帰ってきたらヘトヘトで寝る生活でした。続けることができたのは3か月程度でしたが、アルバイトのお金で父親にビールを買って渡したりと自分を認める行動ができたように思います。

  

■その後も付き合う病へ

 パニック障害を題材とした本を読むと多くの人は発症当初に適切な対応ができていれば、完治することもあるとあります。僕の場合は残念ながらそこには当てはまらず、ここから15年以上付き合う病気となり、不安障害やうつ病を併発することもありました。そのことについても徐々に記事にしていきます。